東瑞庵とは

東瑞庵とは仏教が歴史的な敷きたりや形式などに囚われない本来あるべき我々が目指すべき先の生命の在り方を問うていき、衆生の心の拠り所となる真の仏教の精神を求めています。

普段の生活には必ず悩みや不安、恐怖がつきまとい前向きな人生を歩んでいくことになれず、せっかくの夢や希望を持っていても実行に移せない負の感情に支配されてしまうのです。

しかし、日々の暮らしに欠かす事が出来ない希望の光を阿弥陀様のご慈悲から給う事で生き甲斐に変わり、我々が生きる意味をも教えてくれる存在として皆さんにお伝えしているのです。

阿弥陀様に心を委ねること、信じる事を疑わない心を持つ事が「弥陀の誓願」によって我々はいつでも極楽浄土に帰依することを約束されている理解に至れば幸いであると思っています。

南無阿弥陀仏一念こそ真の幸せがあるのです。
by Zuiken

歎異抄 親鸞聖人      解説

Zuikenの説く歎異抄第一条 

弥陀の誓願不思議にたすけまひらせて往生をばとぐるきなりと信じて、念仏まふさんてまおもひたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれずただ信心を要とすとしるべし。そのゆへは、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまじます。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なくゆへにと云々。

上記は歎異抄第一条、親鸞聖人が口伝にて後世にお伝えされたとされる浄土真宗の髄の全てを要約したものと捉えられた古文として理解出来るものであります。

「弥陀の誓願」とは本願とあり、衆生を助ける事が出来なければ強い誓いを指し、阿弥陀様が衆生をどうにかしてでも真の心の救いを与えたいものであると理解して、親鸞聖人は阿弥陀様の真意を理解した結果として、自身が阿弥陀様の代わりとなって衆生救済を行い、極楽浄土に導く為の誓いであると考えます。

しかし、単に親鸞聖人が弥陀の誓願を理解して衆生に阿弥陀様の考えを理解してもらう為のものでは無く、既に衆生が弥陀の誓願に対しての疑義を唱えた、もしくは解釈ができない状況であったことが誓願を理解した事にもなると解釈が出来るのです。

人がいつか往生した際に知る境地であり、その境地に行くまでには悟りを最初から理解できるものでは無い、きっかけから全ての極楽往生へと繋がるものであると理解出来るのです。

心の変化から既に大いなる弥陀の慈悲を受けており、我々が疑う事から真実に至ることであるのです。

「往生をばとぐるなり」我々がいつ死んでも極楽浄土に行けることを指しており、既に約束されたものとして阿弥陀様の真意には全て生きるもの全てに帰依するものであると理解出来るのです。

「摂取不捨の利益」からも全てこの世で得た智慧には誰もが生きる上で何らかの形から自身への気付きとなり得た生きる意味の事を智慧と理解しており、捨てるものは何も無く絶対の幸福こそ我々が生きていく目的であり意味となるのです。

しかし、我々は生きて行く目的は一時的な達成や目標に対して幸福の追求をしており、諸行無常でもあるようにこの世にある全ての行いやこの世の中への意識は刹那的なものであり、新しいもの流行や最新と言われる目的意識は全ていつかは壊れて無くなるものを我々は常に追いかけているのです。

生れた瞬間から死ぬまで我々は不安や心配から逃れることが出来ないこと、例えば肉体を持つ事で他人比較されてしまう不安、病気になり死を意識した際に沸き起こる不安や恐怖、いつ災害に襲われるからもしれない不安や恐怖など我々は一生の不安から逃れようの無いものからの絶対幸福が阿弥陀様から得られる摂取不捨の利益と考えるのです。

また「あずけしめたまうなり」とは阿弥陀様からの授かりものであるので自身が苦労して掴み取るものではないとの理解となるのです。

「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすとしるべし。 そのゆえは、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします」から阿弥陀様は善人や悪人だかと言う理由で人を精査して往生させているものでは無いのです。

煩悩や重罪によって罪深きものも関係無く極楽浄土に彼岸できる、分け隔て無く大愛によって阿弥陀様のお心に預かることができるとの意味だと理解できるのです。

「その故は、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願となります」では、いくら罪深いものであっても煩悩が炎のように燃え盛るようにあっても衆生を助ける為の本願であり、煩悩を無くす為でなければならない考えでは無いのです。

器の広さを感じさせるものでありますが、阿弥陀様は人智を越えた宇宙そのものの存在であり、人間は地球上で誕生した単なる動物の進化からなるものなのです。

もしこの考えをマクロ的に客観視すれば人間の悩みや煩悩はもとより生きていかなければならない生活の手段によって生まれてくる悩みであると考えられるのです。

人間の進化から悩みや煩悩はいつの時代にもあり、生活苦から何故人は生まれなければならないのか?の疑問が生じてしまうのです。

いくら生活様式が便利になり、生活環境や交通機関などのインフラ整備が整ったとしても生きる事への不安や人間の煩悩は一生無くなるものでは無く、心からの平穏や安寧を求めるのであれば、肉体が無くなっても意識体だけが残ったとしても意識に残った阿弥陀様の本願を信じ続ける事、南無阿弥陀仏の6文字に彼岸へと帰依出来ると確信する意識がなければならないと伝えているのです。

「しかれば本願を信ぜには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々。」これは阿弥陀様の本願からすれば罪人や煩悩を持ったとしても信じる一念さえあれば阿弥陀様のご慈悲の心を給うものであり、同じ人間から見れば罪人としては、罪を犯した人。刑を受けている人。犯罪者。ざいにん。科人(とがにん)。つみうど。つみんど。と定義付けたものだけにしか無く、ただ弥陀の誓願のみ信じれば今すぐにでも往生出来るとの理解なのです。

例えば3年前に弥陀の本願を信じたから3年先に救われた考えでは無く、時間や量では決してあり得ない考えなのです。

このように歎異抄は200文字程度でありますが親鸞聖人が弥陀の本願をたてて事は全てこの世に生きる全ての方々を救いたいとの願いを表しているものだと思います。

ただ歎異抄を現代語訳に変換するだけでは本末転倒であり、本来我々が生まれて来た事に対して同じように先人も救われたい思いによって当時の時代世相から導き出した答え、いわゆる智慧によって成されてきた事は我々の社会や生活が良いよい秩序によって形成されて来た事を意味しているのです。

何故、親鸞聖人が仏教を探究したのか?また探究した結果に至るまでに我々後世に何を伝えようとしていたのかをこの歎異抄で少しでも感じとれたのではないかと思うのです。

これからも時代が変わり続けながらも人間が生きる意味への疑問は同じなのです。

だからこそ我々は浄土真宗によって阿弥陀様の本願に添った生き方に共感して、そして自分だけでは無く周りの人々にも幸福を与えられるようにならなければならないと感じるのです。

表面的な文章の解読では無く、真の人間の生き方に直結する古文であると実感した次第であります。