生きる意味を知る
‐ 千里の道も一歩から ‐ 我々が生まれてきたことは様々な経験を天が与えており、夢を持たせる意味として同じ意識を持った者同士が集まっているのです。それは家族や友達、会社仲間であるのです。今日までの自分を作り上げてきたのは紛れもなく、周りの関係性があっての自身の成長なのです。
自然界に存在する我々の使命
自然界に生きている我々は木、火、土、金、水の作用によってバランス良く生かし生かされている存在なのです。
生かされている事とは何らかの生命を宿した時から既に生きる為の宿題のようなものを背負わられてきたと理解できるのです。
自然が私たちと共にあり、その中で自分がどのような役割をこの地球上で担うかを自分自身で理解して、周りの方を助けていかなければならないのです。
水は木の成長を助ける重要な役割なのです。
火は木の原料が無ければ燃える事すらできないのです。土は木を燃やしてくれた火に感謝しなければならないのです。
燃えたカスは土になりまた植物を発生させるのです。
鉱物は土から宿り、金を生み出す重要な役割となるのです。しかし、金を加工しなければならない際に火は必要であり、金を痛めつける相剋となるが水が鉱物を守る意味から五行があり、自然界を表すようになっているのです。
この事から人も自然界の在り方に置き換えれば生きている真実が見えてくるのです。
自分は絶対的な存在では無いことが生きる使命への気づきとなるのです。
泥 に 咲 き
生 き て 輝 く
蓮 の 華
生命を宿してから死に至るまでにさまざまな経験を強いられるのです。
辛いことや泥臭いことも必ず人生にはあり、他人が勝手に生み出した感性があたかも正しいと錯覚することが日常茶飯事である自分に対して疑問を投げかければならないのです。
疑問に対しては全て泥臭い池のような光景を想像するかと思いますが、泥臭い事に自分に必要な真実が隠れており、苦い経験から得る後には蓮の華のように綺麗な自分が咲いていることを意味しているのです。
仏陀の教えこそ真理
仏教が広まって約2500年もの歳月をかけて我々が身近にする、歴史の中には必ずと言って仏教を広めた開祖としてお釈迦様の存在が我々の心の拠り所として今も尚、語り継がれ教えを伝えられているのです。
お釈迦様はゴータマ・シッダール『最高の牛』『目的を達成する人』と言う名前の意味を持つのですが、お釈迦様と呼ばれるようになったのは、釈迦族の王子であった事からのようです。
また、悟りを開いてからは釈尊と呼ばれ、釈迦族の尊者として、聖者として釈迦牟尼と呼ばれていたのです。
悟りを開く事を目指したお釈迦様は29歳の時に出家をしたのですが、理由については常に生活の中で全ての人々が抱える『生きること、老いること、病気になること、死ぬこと』から解放できない事に悩み続けていたのです。
私たちも生まれてから今までの人生について考えても誕生してから死に向かって生命が息絶えるまで、様々な身体への影響が生まれ人々は悩み続けなければならないのです。
悲しみ辛い事からの救いを求め続けなくてはならない葛藤から逃れる手段として、お釈迦様はバラモン教の教えに従いながら6年もの過酷な荒業を行い続けたのです。
しかし、修行をしてもお釈迦様は悟りを開くことが出来ずに、継続して荒業を行い、死線を彷徨った挙げ句、ウルヴェーラー村に住むスジャータの助けにより一命を取り留めたのでした。
そこからお釈迦様は荒業をやめて菩提樹の下に座り瞑想を行った結果、35歳の時に悟りを得て仏教を広めたとされているのでした。
お釈迦様はもともと裕福な生活、結婚して子供にも恵まれていた訳でしたが、敢えて全ての幸せを投げ出しても悟りを開きたかった理由が上記の内容から察する事が出来るのです。
人々が必ず直面する生きる事への不安、死に対する不安をどの様にして解決すれば良いのかを悩んだ末の結果として出家の道を選ぶ程の決意だったのです。
6年もの荒業から瞑想に至り、結果悟りを得たことは我々が生きている意味を知る事にもなり、仏教の教えは自分自身の人生のヒントとして気付きになるものに違いないのです。
80年の生涯を全て人々に悟りを広め、救いを与えたのです。
この教えを弟子たちが文章にまとめたものがお経となるのですが、単に漢文を翻訳して知るのでは無く、お経の真理を知る事が必要なのです。
日本に仏教が伝来してから数百年に渡り宗派が生まれ教えが我々の生活に身近にある今日まで日本人の叡智を含んだ教えが広まってきたのです。
その当時、人々の心はどのようなものだったのでしょうか?
過酷な生活に救いを求めていたのかもしれないのです。
今のように蛇口を回せば水が出ることやガスコンロから火を燃やして料理をする事や部屋の空調のエアコンでの温度調整など無かった生活を強いられて来た事で、少しでも生きる糧を見出すことが必要だったのかもしれないのです。
浄土真宗では南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽浄土の彼岸となり、ただ一念に発起する事が全ての悟りに繋がるものであるとの解釈とされているのです。
これは南無阿弥陀仏を唱えるだけに至った訳であり、色々な過去の長文を読み解きながら咀嚼して理解した結果とした答えが6文字に至った訳なのです。
南無阿弥陀仏に込められた意味を理解する事では無く、南無阿弥陀仏を唱える事により、救いを求める我々への最も理解しやすい教えとして老若男女問わず波及させていくことが必要だったのです。
本来ある仏教のルーツとしてお釈迦様が悟りを開いた意味とは一体何なのでしょうか?
悟りとは一体なんなのでしょうか?の答えを求めてしまうのです。
諸行無常と言う言葉がありますが、全てこの世の現実存在や森羅万象には姿も本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことを意味しているのです。
これは常に全て地球上には絶対的な存在が在り続けることは無い、全て生まれたものには変化があり、朽ちていく、壊れていく、変化していくなど一定を保持する事は出来ないのだと理解するのです。
お釈迦様が悩んだ『生きること、老いること、病気になること、死ぬこと』も然り、生まれて来た事は全てに於いて終わりもあり、一定を留まる事を許さない時間の中で我々は存在している境地であるのです。
そこに対して抗えば抗う程、執着が生まれてくる事を意味しており、全てを受け入れる事が必要であるとも理解できるのです。
人は身体を持つことにより、本能が働き寝ること、食べること、子孫を繁栄させることなど肉体を持ってしまった以上、抗う事ができない、煩悩を持たなければならないのです。
そして肉体を持つことは人間としての道徳心を養うものであり、智慧を持ち人格を形成させていく為に必要な身体なのだと思うのです。
戒律も自身の欲求に従うのでは無く、戒律を持って自身の規範内に留めた意味を持ち、煩悩への解脱を目的とした悟りの境地に至る手段であるのです。
強制的な意味もありますが、本来は人間は求めていく事が向上心や物欲への執着が努力にも繋がる訳でもあります。
欲求こそ生産性を生み、経済発展や消費として物質社会への仕組みでは理論上正しいのでありますが、諸行無常の意味を持ったと考えれば全て無意味であり刹那的な考えに至るのです。
欲を持つ事が三次元社会、物質至上主義を意味する事が本来の人間がより良く生きる為のものだったのでしょうか?
物質的に満たされていても、いずれ考えも変化していき、価値があったものは壊れていく事だと知らなければならないのです。
2500年前にこの意味を理解して悟ったお釈迦様は大変素晴らしい教えを世界に広めたのだと思うのです。
我々も仏教を通じて人間が生まれて来た意味を知ることへの理解を示し、より良い社会構築と未来永劫に尽力すべきなのだと思うのです。